私の中の4分の1の沖縄

八月、終戦の夏。戦の悲劇を見つめてみませんか?

PhotoLibraryよりヒロムさん撮影。フリー素材「琉球の古民家」です。

人は年を経るとともに 自分のルーツが気になってくるものなのだろうか。

50歳も目前になって、その思いが年々強くなる気がしている。父方の祖父も、母方の祖父も、私が生まれる前に他界していたから、私は二人とも会った事がない。おじいちゃん、という存在がどういうものか、実体験がないのだ。

しかし、沖縄由来の私の名字は(旧姓)子供の頃から嫌がおうでも祖父の存在を意識せざるをえなかった。父が母と出会い、私が生まれ育った奈良ではめったにない名字だから、正しく読んでもらえないこともしばしばだった。私はその度に自分の名字に向き合うことになり、そこで沖縄を意識する、私にとっての沖縄はそんな場所だった。

乏しい祖父の情報

祖父のことは父から聞いたわずかなことだけ。小さい頃養子に出され、養子先からまた戻されたりと不遇の幼少期を送り、沖縄から鹿児島にわたったこと、そして努力して海軍の軍医になったこと、戦後は鹿児島で小さな医院を開いていたこと、祖母と結婚する前に好きな人がいて、結婚後もその人との間に子供をもうけたこと、父が大学生の頃に突然亡くなってしまったことなどだ。

父は祖父を大変尊敬していたことは言葉の端々にも表れていた。酒に酔う度に、どうしてあんな早く亡くなってしまったのか、もっと生きてくれていたら自分も医者になり人生が変わっていたのに、という恨み言にも似た言葉を吐いていた。

余程、祖父の存在が大きかったのだろう。私は母とそれを冷ややかに見ていたのを思い出す。父の言葉を借りれば、沖縄を捨てて鹿児島にわたったということだから、父も沖縄には行ったことはなかったし、親戚付き合いもなかったようだ。当然、私も行ったことがない。旅行にさえも、一度も……。

名字が沖縄の名字で、沖縄を意識せずに暮らすことなど不可能な環境であったにも関わらずだ。

 

複雑な沖縄への思い

しかし、不思議なもので、一度も沖縄の地に足を踏み入れたことがなくとも、沖縄がたどった過酷な歴史を知り、基地の問題などをニュースで耳にするにつれ、沖縄への思いは複雑なものへと変わっていくのだった。

それは、先の戦争で唯一本土決戦となり、おびただしい血が流された沖縄が、今もなお多くの問題を抱え続ける現状に対する言いようもない哀しみと怒り。そして、その犠牲の上に豊かな生活を享受して、都会にのうのうと身を置いている自分自身の後ろめたさ。それは罪悪感にも似た感情だ。人は意識するしないにかかわらず、誰かの犠牲の上に自分があることを沖縄を想うたびに考える。

戦争中、本土は沖縄を捨て石にした。

数年前の新聞記事を思い出す。「内地でなくてよかったわね。」という声を聞いたという体験談。ほんの一例かもしれないが、沖縄が九州の人たちから差別されていた現実を考えれば、そういう思いが本土の人に少なからずあったことは否めない。

これには少なからぬショックを受けた。

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