私の中の4分の1の沖縄

八月、終戦の夏。戦の悲劇を見つめてみませんか?


自分でなくてよかった

災難がふりかかるのが自分でなくてよかった、こんな思いは私の中にもある。だからこそ、沖縄と無縁でない自分が、戦時中にあの沖縄に生まれなくてよかったとでも思って終わりなのか。私の中に流れる4分の1の沖縄の血がそう責め立てるような気持ちになる。

もっと早い段階で戦争を終結させていれば、あんなにも多くの民間人が命を落とすこともなかったと思えば、なんともやりきれない気持ちにもなる。政治家が毎年夏にかりゆしを着て登庁しても、私には白々しいパフォーマンスにしか見えない。

しかし、戦争の悲劇は沖縄に限ったことではなく、中国、朝鮮半島にも、東南アジアにも、広島、長崎にも、東京大空襲でなくなった民間人にも、日本の兵士にも、もちろん連合国側の兵士たちにもあてはまることではないだろうか。何があの戦争を引き起こし、何があの戦争を8月までひっぱり続けたか。様々な証言と専門家の話をふまえ、多方面から自分なりに考えていくことは、一般人の私達にもできることだ。

日頃からこういうことを考えておかないと、目の前につきつけられている社会の動きがどういうものかが判断できず、自分の身にふりかかってはじめて驚く、ということにもなりかねない。これはある種の悲劇でもある。悲しい哉、日本はそんな時代にすでに突入してしまっている。

 

人ごとには思えない

話を元に戻すが、私はこんなにも沖縄から距離的にも、心情的にも離れたところで、複雑な気持ちでニュースを聞いている。そんなことしかできない自分を、4分の1の沖縄の血がどう思うだろうかと考えるだけで胸がしめつけられる思いがする。とても人ごとには思えない。

おそらく私は沖縄には旅行目的だけでは行けないだろう。まずは祖父の本籍地があった嘉手納(だったと記憶しています)を訪ね、そして離島をまわり、たくさんの人が戦争で犠牲になった場所を訪ね、そこに住む人たちの声を聞いてみたい。

それは結婚するまで何十年も沖縄の名字を名乗っていた者の使命、のような気がしている。いつ実現できるかどうかわからないが死ぬまでに必ず実現させたい。自分が沖縄に生まれ育って来た人たちの思いに寄り添えるとは思わない。そんなこと、おこがましくてとても言えない。でも、自己満足は百も承知で、知りたいと思う。

蝉の声がうるさい8月がやって来る度に、そんな思いを抱く。

〈編集部より〉
8月を迎えて、広島・長崎、終戦の日。“あさりおん”は戦争について平和について、雑踏の中のすずめ達こそが思いを伝える必要がある時季が来ているように感じています。いまだからこそ、暮らしの中で平和を守る思いを分かち合えればと願っています。この記事に共感してくださった方、あなたの中の1/4を周りの人に伝えてください。