貧しさに負けた、いえ世間に負けた

あぁ、懐かしき昭和絶望ソング② 昭和枯れすゝき —さくらと一郎ー



昭和歌謡曲考察

〜絶望ソングにみる希望〜 第2回

「昭和枯れすすき」 

作詞:山田孝雄、作曲:むつひろし、編曲:伊部晴美


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懐かしき昭和の絶望ソングとして、前回、中島みゆきの「わかれうた」を取り上げたが、「絶望」という点においては、この曲はさらに上をいくかもしれない。

「わかれうた」が失恋の絶望を歌ったのに対し、この「昭和枯れすすき」は愛し合う二人が何らかの不幸な理由で人生に絶望し、死、すなわち心中を意識するという歌である。

この曲は150万枚を売り上げ、1975年のオリコン年間NO.1にも輝いた大ヒット曲となったが、今、150万枚のセールスをあげられるのは某人気アイドルグループはじめ、ほんの一握りしかいないことを考えれば、この曲がどれだけヒットしたか容易に想像がつくだろう。

 

「時間ですよ」の挿入歌

以前、人生の10曲を選ぶという企画のテレビ番組で女優の樹木希林さんがこの曲を10曲のうちの1曲に選んでいた。

この曲は、当時希林さんが出演していた「時間ですよ」という人気ドラマの劇中歌だったが、当時、テレビ局が大切にしたのはきちんとした劇団出身の俳優ばかりで希林さんは相当な不満を抱えていたそうだ。何をしても面白くない!という時期だったそうで、そんな時にこの曲のメロディーに癒されたと話していた。
詞の中身よりメロディーに癒された、というのは、なんとなくわかる気がする。あの冒頭のインパクトある大正琴の音色は一度聞いたら耳について離れない。

 

多くの人々の琴線に触れ、ヒットする歌というのは、
作詞と作曲が調和して説得力を持った時だと思う。

メロディーには歌詞の内容を裏付ける説得力がなければダメだし、その逆もダメだ。そういう点から考えるとこの「昭和枯れすすき」という曲は、超がつくほど絶望的な歌詞(もう死ぬしかない、という極限を歌っているわけだから)を裏付ける説得力抜群のメロディーで当時の人々の心を鷲づかみにした。先に述べたように、あの大正琴とギターの物悲しい音で始まるイントロ。聴く者はぐぐっと詞の世界に引き込まれていく。

「な、何だ、これは!?」と興味を持たざるを得ない。引き合いに出すには強引かもしれないが、私の中では、いきなりハイトーンのボーカルではじまるアバの「ダンシングクイーン」にも匹敵する始まりなのだ。こういう曲がテレビのゴールデンタイムの歌番組でも流れていたので、小学生も学校で普通に口ずさんだりする。今から考えたら、しみじみおおらかな時代だったように思う。

歌詞の話に戻そう。

(男)貧しさに負けた

(女)いえ 世間に負けた

(男女)この街も追われた いっそきれいに死のうか

この歌詞からわかることは、この男女は貧しさと世間の冷たさを嘆き、また街を追われる境遇に絶望し、もう死んでしまいたいと思う所まで絶望しているということだ。

「この街も」と言ってるから、それまでにも色んな街を転々としていたのだろう。何らかの理由があって追われる生活をしていたのかもしれない。二人が世間に後ろ指をさされる関係なのかもしれないし、どちらか一人がそういう境遇にあってもう一人が付き合っているのかもしれない。それで転々としている生活に疲れ果てて「死のうか」と言っているのだ。

 

この「死のうか」という言葉

今から考えれば意外に思われるかもしれないが、数十年前は流行歌の中でも「死」や「自殺」をほのめかす言葉は結構あったように思うし、それに目くじらをたてる人もほとんどいなかったように思う。

「死」は今ほどタブー死されていなかったのかもしれない。世の中が暗くて絶望的だからそういう歌も自然に受け入れられたのか、それとも、世の中じたいが上向きになっていた頃だからこそ、それに取り残された不幸にスポットライトがあたっていたのか、それは悩むところだ。しかし、とにもかくにも、死が今よりも日常的なものであった気がする。

「いっそきれいに死のうか。」

今、この歌詞が世にでたら「自殺を推奨している」「青少年にとって有害だ」などとクレームが殺到するかもしれない。しかし、「死」は昔から、純文学においても、「宗教」においても、欠かすことのできない重要な概念のひとつである。今も根強いファンを持つ作家の太宰治も「人間失格」の中で、「生まれて来てすみません」というネガティブな言葉を主人公に語らせている。太宰自身も自殺未遂を繰り返し、作家としてのみならず一人の人間として「死」を常に意識していた人だ。

「死」を意識しなければ「生」も意識できない。「生」をきちんと意識する者は「死」もきちんと意識できる。そういうものだと思う。

現に、この「昭和枯れすすき」の次の歌詞の中でも

「力の限り生きたから 未練などないわ」

と言っている。

そう、力の限り生きたから未練はもうない、思い残すことはないと歌っているのだ。なんと潔いのだろう。力の限り生きろ!そうすれば花が咲くぞ!という現代的な励ましソングのパターンではなく、一人称で(私の言葉として)、もう死んでも未練はない、という方が聞くものの心によりぐっと刺さる気がする。

上から目線で諭されるよりも、他者の体験として絶望を見聞きしてそれに共感できた方が人は心が癒されるものだという方がしっくりくる。

絶望ソングによる希望、皮肉なようだがそういう効果が実際にある気がする。

「ここまでの人生とくらべてみれば、自分の置かれてる境遇などまだましだな。」
「もうちょっと頑張ってみようか。」

と思ってもらえたら幸い!と、作詞者が考えたかどうかは定かではないが、絶望ソングには結果的にはそういう効果をもたらしているように思う。

次回は、アリスの「帰らざる日々」について考えます。

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